七草にちかは、『アイドルマスターシャイニーカラーズ』に対して突きつけられた「神の死」である
七草にちか、実装初日から話題を呼んでいます。
『アイドルマスターシャイニーカラーズ』は、「アイドルマスターシリーズ」の一作であり、所謂ブラウザゲームです。
サービス開始当初からそのシナリオが特徴的であるというふうな印象を受けてきましたが、自分が実際にプレイしてみることで、その破壊力というものを実感できます。
ですので、本来なら皆様にもプレイした状態で読んでいただくのが理想なのですが、ある程度未プレイの方にも分かるように補助線として説明は書いておくつもりです。が、やはり既プレイの方を前提に話を勧めていきますので、分かりづらいという印象になるかもしれないということは、事前に断っておきます。
ゲームシステムをシナリオに組み込むギミック
さて、突然ですが、ゲーム、とは一体何でしょうか。
ここで一からその言葉の定義、成り立ち、歴史についてお話するつもりはありませんので、あくまでも私の認識としての一般論、そして私なりの「ゲーム」について書いていきます。
ゲームとは、現在ではデジタルとアナログに媒体を持つゲームであり、コンピュータ上で遊ぶことができる娯楽です。そして、その両方に於いて、再現性というものが存在します。
もちろん、ゲームである以上、そこには必ずランダム性が存在します。サイコロを使えば乱数が生じますし、コンピュータであっても、擬似乱数としてそのランダム性を再現しようとしています。
ですが、プレイヤーはそのランダム性を極めて恣意的に、自分に有利になるように「操作」しようとします。当然、ゲームの側から与えられる確率だけに身を任せているのでは、到底能動的に遊んでいるとは言えませんし、ましてや対戦ゲームであるならば、自分が勝ちたいと思うのが当然です。なので、常にプレイヤーは自分に有利になるように、ゲームにおけるランダム性を、自分の方に引き寄せます。そして、その極地は、「何回やっても同じプレイングができる」という、ランダム性の欠如です。
では、ここで一つ仮定します。
「ランダムであるはずのアイドルの活躍を、意図的に決めることができたら?」
平凡で、どこかで見たことがあるアイドル
七草にちかは、自他ともに認める平凡な女子高生である。
しかし、アイドルに対する憧れを捨てきれず、憧れる283プロのプロデューサーに対して強引な押し売りを仕掛け、なんとか研修生として283プロでアイドルとなることができた。
にちかがアイドルとして成長していく中で、プロデューサーはにちかがアイドルに憧れるきっかけとなったのが、かつて彗星のように現れ、そして消えていった八雲なみであることを知る。そしてにちかがやっているのが、単なるなみの真似であることも。
WING出場へと歩を進めるにちかであったが、躍進に反して彼女の心は陰っていく。このままなみの真似をするだけでいいのか。そんな迷いが彼女の心に差し込む中、283プロに保管されていたなみの曲、「そうだよ」の白盤(サンプル版のレコード)を見つける。
WING決勝で優勝したにちかは、全てが終わった後倒れてしまう。笑えているかと聞く彼女に対し、プロデューサーはそれでも苦しそうだと答えた。その後、体調を取り戻したにちかは、プロデューサーになみの「そうだよ」の白盤を見つけたことを告げる。そして、その白盤に書かれていたタイトルが、完成版の「そうだよ」でなく、「そうなの?」であったことも。かつて自分の背中を押してくれたなみの曲であったが、今ではそうなのか、にちかには分からなくなっていた。
上ににちかWINGシナリオの簡単なあらすじを書きました。今回のシナリオは、これまで『シャニマス』が培ってきた文脈が遺憾なく盛り込まれているので、かなり複雑なものになっています。そのため、このあらすじにはすべてを書ききることができませんでした。なので、私が今回語りたいことについてのみ集中して要約してあります。
にちかWINGシナリオで重要なのは、二点。「七草にちかは八雲なみの真似をしたくてアイドルになった」という点と、「真似を続けてアイドルをやっていくのは幸せなのか?」という点です。
七草にちかはシナリオ中、くどい程に繰り返し「平凡である」ということが強調されます。平凡であり、特徴がないから、アイドルには向いていない。断言こそしていませんが、まるでそう言いたいかのようです。それに対して、プロデューサーはにちかが平凡であると気づきながらも、ここから独自の魅力を見つけることができると信じプロデュースを続けていきます。
そして中盤でにちかは憧れのアイドルである八雲なみの真似をしていただけであると判明します。八雲なみは、上述したように彗星のように現れ、そしてすぐさま消えたことで、半ば伝説として語り継がれ、そして忘れ去られかけている存在です。私は寡聞にして現実のアイドルには詳しくないのですが、確かにそういう存在はよくいるのでしょう。一時期に圧倒的にもてはやされ、そしてすぐに忘れ去られる。今で言えば、バズったネタが急激に擦られ、そしてある日突然誰もそんなネタが有ったことを覚えていない。そんなSNSでの現象のほうが馴染みがあるのではないでしょうか。
そしてプロデューサーは、にちかに対し、単なる真似は本当に楽しいのか?という疑問を投げかけます。それに対し、にちかは何も無いアイドルが生き残るには、すごいアイドルの真似をするしかないと言います。
その疑問は宙ぶらりんのまま、にちかはWINGで優勝することになります。プロデューサーの手腕と、にちか自身のなみへの憧れによって。
ここに、今回の『シャニマス』が仕組んだ、構造の真の姿が隠れています。
再現性の高いプレイングと、同じものを見せるアイドル
さて、ここでゲームの話に戻ります。
ここでは、ゲームとはプレイヤーが自分が遊ぶためにランダム性を消去し、同じことを何度でもできるようにするものである、としました。それはシャニマスでも同じです。異なるアイドルというキャラクターに対し、しかし同じように、例えばWINGで優勝する、ファン感謝祭でMVPを取る、GRADで優勝する、など、ゲーム側から設定された条件をクリアするためにプレイヤーは試行錯誤します。そしてその結果として、集合知が攻略情報として、インターネットで共有されたりします。
結果なにが起きるか。本来異なる存在であるはずのアイドル達が、攻略の名の下、まったく同じようなステータス、スキル構成に編成され、同じ過程をたどってストーリーをクリアする、という現象です。
断っておきますが、私にはそういったプレイングを批判する気は一切ありません。私自身、今言ったようなことは何度も繰り返しています。
が、『シャニマス』がやってのは、そうして完成、固定化した構造に対して、その構造自体をストーリーに組み込んだ物語を提供することでした。
平凡であるはずの女子高生が、プロデューサーの手腕によって、強い個性と能力を獲得し、アイドルの登竜門であるWINGという舞台をクリアする。
それは、私達が画面越しに行っているゲームと、何が異なるのでしょうか?
時にゲーム側が設定した個性すら無視して、自分達が望む形にアイドルを育成し、自分達が使いたいようにフェスをプレイし、またアイドルを育成する。綿密に計算されたプレイングによって、多少の誤差を形容しつつも、まったく同じステータスを持つまったく異なるアイドル達を量産する。
それは、『シャニマス』のプロデューサーが行ったことと、果たして違うと言い切れるのでしょうか?
それを象徴するのが、八雲なみのエピソードです。
彼女はスカウトによって頭角を現したとされるエピソードが作中語られますが、実態は鳴かず飛ばずのアイドルであり、それを彼女のプロデューサーの強引な戦術によって、カリスマ的な人気を獲得するに至ったという事実が判明します。
八雲なみに残っていたのは「アイドルをやりたい」という意欲だけであり、後は何もなかった。だからプロデュースによって個性を付与され、結果としてそれが人気を博し、にちかのように、彼女のようなアイドルになりたいという人物が現れるに至った。
本来なら、それは良いことのはずです。誰もが真似することから始めるのは当たり前ですし、オリジナリティというのは、見方を変えれば存在しません。
ですが、完全なコピーは本当に正しいのか?作中では、靴に自分の足を合わせるという表現が使われます。確かに、靴に合わせて自分の足を切り落せば、輝かしいガラスの靴は自分のものになります。ですが、そうして手に入れた靴はすでに赤い靴になっているのではないでしょうか。持ち主を永遠に踊らせ続けるだけの、赤い靴に。
『シャニマス』が描いてきたもの、描こうとしているもの
『シャニマス』は、ストレイライトと言うアイドルを通して、アイドルの二面性について描きました。ノクチルというアイドルを通して、ただそこにいるだけでアイドル足り得る存在を描きました。そしてSHHis、七草にちかを通じて、『シャニマス』というゲームそのものについて描くことに成功したのです。
ゲームには、物語には必ず終わりがあります。物語は終わらせることができる、という意味であらゆる物語は等価ですが、ゲームはその中でも、「自分の手によって物語を進めている」という実感が強い媒体だと感じます。そうした媒体の特性を、十二分に生かしたシナリオを描いてきたこと、そのことに、『シャニマス』の可能性をより強く信じることができると思うのです。