アクト-レヴュードライブ

備忘録的なものです。

『愛がなんだ』はすべての人へ送る幸福論──『花束みたいな恋をした』と比較して

愛がなんだ

『花束みたいな恋をした』という作品、ご存知でしょうか。このブログを見に来ている方なら知らない方のほうが少ないと思います。実写邦画ではかなりのロングランを記録している、大ヒット中の恋愛映画です。

私は押井守が出演しているから、という理由で見たのですが、その結果非常に満足できました。というのも、非常に2021年という時代を(劇中では2020年までを描いていましたが)を正鵠を射る描写によって描いていたからです。ですので、私はそういった方向で感想を書いていたのですが、そこでフォロワーの方から『愛がなんだ』という作品が、似ているテイストなのでおすすめです、と紹介されました。

元々今泉力哉監督に興味があったこともあり、ついに先日視聴しました。結果としては、こちらもまた非常に滿足しましたし、同時にこの映画は『花束みたいな恋をした』と似た部分を持ちながら、まったく異なる結論を提示していると感じました。ですので、その差異に着目しながら、『愛がなんだ』の感想を書いていきたいと思います。

また、記事の性質上、『愛がなんだ』『花束みたいな恋をした』双方のネタバレを多分に含みますので、ご了承ください。

 

「私」である物語:『花束みたいな恋をした』

『花束みたいな恋をした』

サブカルオタクの麦は、大学でそれなりに楽しい日々を過ごしながらも、ただ騒ぐだけの集団を内心で”分かっていない”と見下していた。そんな折、偶然出会った絹という女子大生と、押井守をきっかけに意気投合する。二人は互いの濃いサブカルオタクとしての共通点で盛り上がり、互いに好意を深めていく。

三度目のデートでついに告白することを決意した二人は、しかし中々切り出すことができない。そうしてようやく交際までこぎつける事ができた二人は、同棲生活を始め、「ずっと変わらないような生活」を送る。

しかしそんな二人の生活も、互いの両親の訪問、そして麦の父親からの仕送りの停止という形で、終りを迎える。否応なしに現実に向き合うことになった麦と絹は、それぞれ麦はイラストレーターをとして、絹は就職を目指して活動を始める。

資格を取り、順調に事務職につき成功する絹に対し、イラストレーターが上手く行かず挫折した麦は遅れて就活を始める。絹に遅れて就職することになった麦は、やがて仕事漬けの日々を送るようになり、かつて好きだった作品の内容すら思い出せないようになっていく。

そんな麦と対象的に、仕事先での付き合いを経てイベント系の企業へと転職した絹だったが、そんな絹に対して麦は「現実を見ていない」と感情を顕にする。これをきっかけに、二人の小さなすれ違いに対する不満が爆発し、挙句の果てに買い言葉に売り言葉のような流れで放たれた麦からのプロポーズによって、二人の関係は破局一歩手前まで進むことになる。

友人の結婚式の後、いよいよ別れを決意して二人だったが、麦はやはり別れを拒んでいた。だが、そこに現れたカップルがかつての二人のようにサブカルで盛り上がる姿に自分達を重ねる。そして別れを決意した麦と絹は、ゆっくりと別れへの準備を進めていった。

そして二人が出会ってから五年後、別れてから一年後、二人は偶然再開する。それぞれに新しい恋人がいたこともあってか、二人は特に会話することなく、背中越しに手をふるだけで別れる。そして、麦がストリートビューに写っていたかつての二人の姿を発見して物語は幕を下ろす。

 

やや長いあらすじになってしまいましたが、これでもかなり要点を抜き出したと思います。『花束みたいな恋をした』(以下『花束』)は、非常に語るべき取っ掛かりが多い作品なので、その全てを個々で語ることは非常に困難です。なので、ここでは『花束』の描いているテーマについてを書いて、『愛がなんだ』への前説としたいと思います。

 

『花束』のテーマを象徴しているのは冒頭と終盤なのですが、ここでは終盤にフォーカスしてみたいと思います。

終盤、別れ話を切り出すため二人の思い出のファミレス──かつて告白しようとして、結局できなかった場所──へと向かい、そしてグダグダな別れ話を繰り広げる二人は、やがてやってきたあるカップルを目撃します。

そのカップルは、かつての自分達のように、お互いの共通点を確認しながら、初々しくコミュニケーションを進めていきます。その姿をかつての自分達と幻視した絹は、思わずファミレスを飛び出す……というシークエンスです。

重要なのは、ここで二人の姿を幻視するという部分。すなわち、自分達がもう一人いると認めているのです。素直に読むならば、これは失ってしまった自分達の姿を思い出す、感動的なシーンなのですが、この映画は一筋縄ではいかないものであり、またそうした筋とは異なる読み方を提示することにも意義があると感じるので、その異なる読み方について説明していきます。

つまり、このシーンは本作が描いている「ありふれた恋」あるいは「関係性」を愚直なまでに具現化したシーンなのです。この作品は「現代に生きる人のためのラブストーリー」とされています。そんな本作において、こうした他者に自身を重ねるシーンは極めて意味があるものです。

二人がまったく同じ形として、今目の前にあるということ。これは、二人の関係性が何ら特別なものではなく、現代においてただ普遍的なものであるという事実を、スクリーンの向こう側に提示することです。勘違いしないでいただきたいことは、この作品が提示したことが善悪といった価値基準ではなく、ただ事実を在るが儘に提示したということです。現代において、サブカルオタクといういわばマイナーなものを通じて接する人々は満ち溢れており、すでに特別なものではなくなっている。そして、その二人がたどる道筋、破局までもが、こうして一つのフィルムとして再現性があるのだとこの作品は言っているのです。

それは本来特別な存在として「私」という存在を想像上の存在に同期する機能を持っていた「物語」という存在において矛盾しています。ですが、「物語」の機能を放棄してなお、『花束』は「特別な私」という物語の幻想を砕くという問題提起を行ったのです。

この問題提起の善し悪しについては、私は語るべきところには無いので、語ることができないのですが、しかしこの問題提起に対して、まったく異なる角度からアプローチしていたのが『愛がなんだ』という作品です。

「私」のための幸せの物語:『愛がなんだ』

『愛がなんだ』

恋に恋する山田テルコは、友人の友人の結婚式を通じて出会った田中マモルに熱烈な恋をしていた。その恋は仕事すら手につかず、生活のすべてをマモル優先にしてしまうほどのものだった。

その熱烈な好意はマモルにとって恐怖すら覚えるようなものだった。ある日、その不満が爆発したマモルはテルコとの連絡一切を断ってしまう。友人の坂本葉子、仲原青に助けられながら過ごしていたテルコだったが、再びマモルからの連絡があった。しかし、会いに行くとそこで塚越すみれという女性を紹介される。

マモルにどういうつもりか聞くテルコに対し、マモルはテルコのことが苦手だったと一方的に突き放して帰ってしまった。家路につくテルコはすみれへの不満をぶちまけるが、やがて自分とマモルの幻覚が、自身を避難する様子を幻視する。

すみれにマモルが惹かれていることを認識しながらも、自分に妙に仲良くしようとしてくるすみれを嫌いになることができないテルコ。そんな奇妙な三角関係の中、仲原が葉子に対する片思いをやめようということをテルコに打ち明ける。似たような片思い仲間として、仲原に親近感を覚えていたテルコは、仲原に対し辛辣な言葉をぶつける。

勢いそのままに葉子の元に向かったテルコは葉子と仲原の関係性がおかしいということを告げる。ケンカ別れで終わった二人の話は、葉子からマモルへの電話という復讐という結果を招く。葉子にマモルとテルコの今の関係は、マモルがすみれと付き合うために自分を好いているテルコを利用しているだけだと言われたマモルはもう会うのをやめようと言う。しかしそんなマモルに対し、実はもうマモルのことを好きではないとテルコはいい、二人はこのままいい友達でいようということで落ち着く。

しかしそれは、ずっとマモルと一緒にいるためのテルコの嘘であった。幼い自分の幻覚から、それは本当に恋なのか?と聞かれたテルコは、これはそういうのを超越したものだと納得し、物語は幕を下ろす。

 

『愛がなんだ』もまた、近年の作品らしい非常に語り口が多い、多様な可能性を秘めた作品です。今回は、一面を切り取って紹介しますが、それ以外の味方をすることもできることは先に書いておきます。

本作はテルコの恋愛の顛末を描いた作品です。故に、テルコ以外のディテール、いえ、もはやテルコ自身のディテールすら曖昧に描かれています。では何がくっきりしているのかと言うと、それはテルコが恋をしている様子そのものです。テルコがマモルに対して恋をしている、それ以外の事象は、ほとんど劇中で描かれることはありません。

これは、テルコ自身に極めて近づき、同時にテルコへの安易な同期を拒絶することでもあります。すなわち、テルコと私達が、同じ物語を共有することは極めて困難なのです

テルコは、惚れた男性に無私の心で尽くすことが幸せであるといういわば前時代的な恋愛の「大きな物語」を持っています。ですが、作中で何度も繰り返されるように、そうした「大きな物語」はすでに終わっている時代なのです。
そうした「大きな物語」を誰もが共有できなくなった時代において、ではどうやって恋愛をしていけばいいのか。結婚はおろか、恋についてですら隣人と同じ物語を共有することはできません。異なる価値観を持っているということが浮き彫りになるのです。
ではどうするのか?それはテルコ自身が解答を示しています。「大きな物語」が完結したならば、内側にだけ「小さな物語」を抱えていればよい。誰とも物語を共有する必要はないのです。そうした時初めて、子供のような恋愛から脱却し、大人へと一歩踏み出すことができる。作中に登場する大人が、愛を語らないように、テルコもまた愛を語ることはなくなります。
テルコが最後に見ているのは「小さな物語」の中に閉じた自分の幸せなのです。他者の幸せを優先することで、自分の幸せを同時に満たすことができる「狡さ」こそが、テルコが獲得したものなのです。
ここで象徴的なのが、テルコの新しい職場の上司です。テルコの新しい職場の銭湯らしきところは、一人の上司以外登場することはありません。ですが彼女は、悩むテルコへ恋や愛についてアドバイスします。彼女が語るところでは、離婚した旦那の何が好きだったのかもう分からず、顔も思い出せない。だから、恋や結婚というものが世界のすべてと考えてしまうが、そんなことは無いのだと。

テルコはこの言葉に対しうるさいなあと言いますが、しかしテルコは婉曲的にこれを認めているのです。つまり、テルコが得た結論というのは恋や愛がすべてではなく、自身が幸せであればそれでいいという極めて自己中心的なものです。

 

今のほうがよりわかりやすいかもしれません。結婚というものが絶対的な幸せのカタチではないということが唱えられてすでに久しいですが、テルコはその境地にたどり着いていたのです。自分に恋愛感情が向けられていなくてもよい。自分が他人と付き合うことになってもよい。ただ、テルコはマモルと一緒にいることさえできればそれで良いのです。そこに、いわばちっぽけな恋愛感情といったものは不要なのです。
花束で描かれていたのは「私は他にたくさんいる人で、だから共感できる」という昨今の風潮に対する試金石的なテーマです。だから、特別な私という本質と呼びうるものがそこに欠如してる。何故なら、本質などないのが本質というのが花束が現代に向けたテーマであり、また現代を記述した結果だからです。
それに対して愛がなんだで描いているのは極めて個人的な領域の話であり、「誰かと同じ私はいない」という、ある種当たり前の話です。それは「大きな物語」の終焉であり、同時に個人への信仰の始まりでもあります。つまり、私≠他人という、当たり前の構図が本質であると述べているのです。

これが同意を得られるかはわかりませんが、私はテルコの考えが理解することはできても、決して共感することはできないと思います。自分が愛されなくても、気持ちすら向けられなくてもいいから、ただ一緒にいたい、最終的には同一の存在となりたい、そう思う気持ちを持って他人と接する人はあまり多くないのではないでしょうか?私には断言することはできません。ですが、テルコがそうした唯一無二の存在として描かれていることは事実です。
恋愛=幸せで、結婚=幸福なんて構図は、「大きな物語」の喪失とともに失われている。それは愛がなんだが示したことであり、同時にテルコや大人たちが既にたどり着いている事実です。
すなわちテルコが獲得したのは、第一義における幸せであって、恋愛とかいうような不安定なものではありません。「ただ好きな人とそばにいられればそれでいい」という半ばイカれてるとも取れるそれは、作品が提示しているテルコの本質です。そしてテルコの本質は、そのまま作品そのものの本質となるのです。

これはある方向から見た時、「私」が物語と同期することができないというように見ることもできるかもしれません。しかし、それはあまりにも短絡的であり、また物語の機能をあまりにも軽んじていると言えないでしょうか?

すなわち、『愛がなんだ』が提示しているのは、「私≠他人」という構図であり、それは「私は私であり、ここにいてもいいのだ」という肯定です。好きな私でいていいという、物語の側からの肯定をテーマに据えているのがこの作品なのです。

正直かなり論展開が甘い部分が多く、あまり同意は得られないものかもしれません。しかし、私は『愛がなんだ』という作品は、「私」が「私」であることを力強く肯定していると思えてならないのです。

「私」が「私」であることは、今日非常に難しいことです。それだけに、山田テルコは、私達に勇気を与えてくれているのではないでしょうか?

 

 

愛がなんだ

愛がなんだ

  • 発売日: 2019/09/27
  • メディア: Prime Video
 
愛がなんだ (角川文庫)

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ノベライズ 花束みたいな恋をした