アクト-レヴュードライブ

備忘録的なものです。

『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』まだあるだろう お前が燃やせるものは

救済を実感したことはあるでしょうか。私にはあります。

こう始めると怪しげな宗教勧誘みたいになりますが、ある種の宗教という点ではあまり違いがないと思います。

数度の延期を経てついに公開された『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』(以下『劇場版』)。否応なしに上がっていく期待値を、上げすぎないよう上げすぎないよう、約一年自分に言い聞かせながら、やっとの思いで観ることができたそれは、自分の中にあったどの数字よりも、どんな期待よりもずっとずっと遥か高い素晴らしいものでした。

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 主題歌CD「私たちはもう舞台の上」(特典なし)

※以下ネタバレしかありません。未見の方は読まないことをおすすめします。また、最低限TVシリーズの知識があることが前提となった論展開のため、やや分かりやすさに欠ける面があります。ご了承ください。

 

本作はTVアニメ『少女☆歌劇レヴュースタァライト』(以下『スタァライト』)の直接の続編に当たる完全新作の映画です。『スタァライト』という作品自体、クオリティの高い映像と、謎の多いストーリー、そして非常にエモーショナルなキャラクターの関係性など、とても完成度の高い作品でした。そんな作品の「続編」であり、もしかすると「完結編」となるかもしれない作品となると、『スタァライト』によって自我の獲得へ至った私としては、楽しみな一方、とてつもない不安に襲われました。*1

しかし本作はそんな不安をすべて吹き飛ばし……もとい、燃やし尽くし、「スタァライト」として提出することができるすべてを描き、そして終着駅まで辿り着いたのです。

 

余白だった「愛城華恋の物語」を埋める物語

スタァライト』という作品は、キャラクター自身が抱えるテーマと、作品自体が抱えるテーマが同期しており、「キャラクターの為の作品」という原理主義に貫かれながらも、人類が未来永劫抱え続ける「過去から未来へ進む」というテーマに真正面から向き合う作品でした。『スタァライト』のすごい点は、このテーマを「同じ舞台を再演する」という形で描いたことです。また、更にいくつかのテーマ──友との激突、ポジションゼロに立てない苦しみ、失敗への恐怖など──を重層的に抱えそのすべてが一つの結論に至るために綺麗に折り重ねられている圧倒的な設計力も魅力の一つです。『劇場版』はその魅力を着実に受け継ぎながらも、『スタァライト』時点で残されていた問題を引き受け、更に先へと進める意欲的な作品です。

では『スタァライト』で描かれながらも、解答が示されなかった問題とは何か?それは端的に言えば、本作の主役である「愛城華恋」です。

愛城華恋は主役に据えられながらも、決して多くを描かれることのないキャラクターでした。それは演出面から見た意図的な「余白」であり、またストーリーにおける「舞台装置」としての役割を担っているからでした。つまり、愛城華恋は狙いすました上で、その多くを語られてこなかったのです。ですが、『スタァライト』はそれで成立していました。何故なら、愛城華恋の物語であると同時に、『スタァライト』は「スタァライト」の物語であったからです。ここで言う「スタァライト」は、劇中劇として描かれる「戯曲スタァライト」のことです。

スタァライト』では、何度も何度も繰り返し戯曲の物語が語られます。それは戯曲スタァライトが愛城華恋にとってはじまりの舞台であったと同時に、目指すべき舞台の終着点、彼女の人生における最後の目的地だったからです。5歳の時に神楽ひかりと交換した運命は、必ず実現するべきものだったのです。そのため、『スタァライト』において、愛城華恋の物語は、作中で語られるところの「現在・2018年」でのみ語られることとなります。作品において、対の存在として配置された神楽ひかりとは非対称を描くかのように。

ここで一つ確認しておきたいのはスタァライトという作品の重要な見方*2として、左右対称の構図があります。スタァライトはキャラクター同士の関係性、俗に言うところの「カップリング」にもフォーカスした作品です。そのカップリングを描く上で取られているのが、キャラクター同士の性質左右対称性です。基本は左右対称でありながらも、適宜非対称の構図を挟み込むことによってよりそのキャラクターたちが対であるということを示す手腕は、本作の見所の一つです。また、左右対称という構図は、作品全体に支配的に描かれています。ぜひとも注目してほしいポイントです。

以上の点を確認した上で、愛城華恋というキャラクターが持っている異質さに着目します。まず先述したとおり、愛城華恋の過去編はほとんどと言っていいほど描かれませんでした。唯一と言っていい過去編は、神楽ひかりとの過去編のみです。これは対になる神楽ひかりあるいは露崎まひるに単独の過去編が存在していることとは非対称になっています。この点、しっかりとして過去が描かれていないのは天堂真矢と西條クロディーヌのみなのですが、これは双方ともに描かれない対称性が保たれているので、やはり愛城華恋の異質さが際立ちます。

そして愛城華恋が持つ異質さはその役割です。ほとんどのキャラクターが戯曲スタァライトではない背景を抱えながら、スタァライトあるいはトップスタァに向かっていったわけですが、愛城華恋はスタァライトのみしかないキャラクターとして描かれています。これは『スタァライト』という作品において主役であるキャラクターである以上、必然であると同時に、空虚さを含んだものでした。すなわち、キャラクターである以前に、人間としての縦方向の立体さの欠如という要素を含んだものです。立体的な人間性を持ったキャラクターというのは、ある種の幻想でしか無いのですが、『スタァライト』におけるキャラクターの描写という点において、それはあまりにも非対称の存在なのです。

そうした空白として描かれていた愛城華恋の物語に対して、『劇場版』で描かれた解答は、「これまでのどのキャラクターよりも丁寧に過去編を描く」という、愚直なまでの剛速球ストレートな解答でした。

愛城華恋がどのようにして愛城華恋になったのか。『スタァライト』においてこれまで描かれてこなかった家族や周辺の描写すらも解禁した上で、愛城華恋のすべてを描ききっています。後述しますが、これもまた『劇場版』全体を包むテーマの一つでもあります。

5歳の頃は引っ込み思案でゲームが友達だった愛城華恋。彼女は神楽ひかりと出会うことで、自分を変え、その後を追うことを覚えます。進路希望調査に対して、何一つとして回答することができなかった愛城華恋。彼女が持っていた言葉や思いは、他のどこかから借りてきたものであるということが『劇場版』では示唆されています。「ノンノンだよ」という彼女のセリフは、彼女が演じた舞台のセリフであったことが一つの例です。神楽ひかりが現在どうなっているかについて、頑なに「見ない、聞かない、調べない」という態度を徹底していた愛城華恋。しかし、ある時ふと見てしまったひかりの姿に、自身を律するルールは崩壊してしまいます。転校してきたひかりが、以前王立演劇学院に所属していたこと、王立演劇学院が世界最高峰の学校であることを知らないふりをした愛城華恋。かつての約束を守るために、彼女は「約束を守っていた愛城華恋」の演技をしたのです。

先述したように、これは作品全体に流れるテーマを受けての描写なのです。詳しいことはやはり後で述べますが、作品全体を通して、たった一つのテーマ=愛城華恋を描くために使うという選択をすることができうるのが凄まじい点です。もちろん、その上で本題以外の部分も決して使い捨てとするわけではなく、むしろ主役を食いかねないほどの勢いで描かれているのが素晴らしく、また私がスタァライトの好きなところでもあります。

そうして紡ぎ出された愛城華恋のための舞台である「レヴュースタァライト」は、彼女が持ちうるすべてを燃やし、たった一つの舞台のためにすべてを賭ける、そんな言葉がふさわしい舞台です。

始まるために終わる物語

スタァライトは円環の物語であり、繰り返し=リフレイン(アンコール、と呼ぶほうがふさわしいかもしれません)を何度も繰り返しながら前に進んでいる物語です。同じ脚本の舞台を再演したとしても、二度と同じ舞台はそこにはありません。『劇場版』も同様に、『スタァライト』で描かれた物語を、骨子は変えず再び演じる上で、今までとは全く異なる舞台を見せてくれました。「知ってるはずなのに、見たことない舞台」です。

分かりやすいのは散々っぱら使われていた「再生産」というワードです。本作では華恋が登場する一部のシーンを除いて、ほとんど登場することはありません。*3また、華恋とひかりが一緒に舞台スタァライトを観るシーンや、二人の約束のシーン、第一話のシーンなど、様々な「既に演じられた」シーンが完全新規で作り直されています。本来ならばTVシリーズからの使い回しでも良かったはずのこれらのシーンを一から設計し直すこと。この意味をしっかりと受け止めるべきです。

そうした以前描かれたシーンのリフレインに留まらず、本作はその根幹たる物語のテーマを序盤から何度もリフレインしています。これが先述した『劇場版』全体を包むテーマの一つです。演じるべき舞台は何か、演じたい舞台が終わったあとはどこへ向かうべきなのか。「列車は必ず終着駅へ、では舞台は?」。何度も繰り返されるこのセリフが、本作を象徴しています。

リフレインを示す一つの例として、華恋の回想とワイルドスクリーンバロックのオーバーラップが挙げられます。ワイルドスクリーンバロックそれぞれのレヴューと、華恋の回想で描かれるテーマは、それぞれが対応しているものです。①恨みのレヴューと華恋5歳、ひかりとの出会い。②競演のレヴューと華恋5歳、舞台への第一歩。③狩りのレヴューと華恋12歳、「見ない、聞かない、調べない」。④魂のレヴューと華恋15歳、聖翔受験の決意。そして最後のセリフと、1年前、再会の時の嘘。これらはすべて対応しているシーンなのです。

スタァライト全体にあるテーマの一つとして「追うものと追われるもの」という構図があります。双葉と香子、純那となな、真矢とクロディーヌ、まひると華恋、そして華恋とひかり。この構図も、何度も形を変えて作中に現れてきました。その集大成が、ワイルドスクリーンバロックなのです。

それぞれが背負う「追うものと追われるもの」という配役を、それぞれの解釈で「再演」しながら、少しづつ前へ前へと歩みを進めていく。それは『スタァライト』で描かれていたことでもあります。その「再演」に明確な答えを出しながら*4、更にその答えを受けて新しい答えを出し、愛城華恋が最後のセリフを言うための舞台へと続いていきます。

 

「私たちはもう舞台の上」

『劇場版』は今までのスタァライトで描かれてきたことをリフレインしながらも、全く新しい舞台を作り出していました。それは文字通りの演出であったり、表現方法であったり、脚本の設計だったりします。その新しさは、既に見たことがあるのに、知らないと感じる未知のものです。

正直なところ、一つのテーマ、本作の構造に絞ったものの、まだまだ語りつくせてないところでありますし、そもそも本作の語るべき部分はまだまだたくさんあります。が、あくまでも本作の一番中核となる伝えたかったテーマの部分について、少しでも理解を深めるために、今回はここで終わらせていただきます。

とはいえ、言いたいことは一つだけで、スタァライトありがとう……ということだけです。本当にありがとうございました。

 

 

*1:スタァライト』は私にとって非常に大切な作品であるという話

*2:少なくともアニメ版において

*3:そもそもTVシリーズでもそんな使ってなかっただろという指摘は除く

*4:大場ななが言うところの「喋りすぎ」